slides: ボードゲームはコミュニケーションツールか?
これはファシリテーショントレーニング2024/7/21会案内の投影資料の一部です メニューのStart presentationで、このページはスライドになります
ボードゲームはコミュニケーションツールか?
どう思いますか?
ボードゲームはコミュニケーションツールだ。
ボードゲームはコミュニケーションツールではない。
一旦のterang.icon結論
コミュニケーションツールとしてボードゲームは遊べないが、ボードゲームはコミュニケーションツールだったと言うことはできる。
/villagepump/おまえは何を言っているんだ.icon
捉え方の幅
「ボードゲームはコミュニケーションツールだ」
何は?
0. ボードゲームは——
2. ゲームは——
なんだって?
コミュニケーションうんぬん
0. ——はコミュニケーションツールだ
1. ——はコミュニケーションそのものだ
2. ——はコミュニケーション力を高める
3. ——でコミュニケーションを学べる
4. ——でコミュニケーションが活性化する
その他
5. ——で仲良くなる
6. ——は素が出る
7. ——で社交性が身につく
8. ——は役に立つ
9. ——は社会的に有用だ
$ 3 \times 9で$ 27も問いが新たにできてしまった
このまま無限に作り続けられる
ボードゲームとは
狭く言えば、ボード上に駒や石を置くことで局面を表現するゲーム(増川 1978)
広く言えば、アナログゲーム、カードゲーム、パーティゲームも。
マナーの問題?
嫌われるボーゲームプレイヤー(キリンノックス 2019)
内輪ノリがすごい。
初心者がいるのに専門用語を使いまくる
指示しすぎ(アドバイス、助言しすぎ)
奉行
ダメ出し
初心者狩り
「つまらん」
犯罪行為(セクハラ、殴る、器物破損、違法なマルチ商法勧誘 等)
イカサマ
自分の手に対する愚痴
ボードゲーム中にスマホをずっといじっている
度が過ぎる長考
急かす
ボードゲームを大切に扱わない
ボードゲーム経験をステータスだと思ってる
インストが雑
口三味線(他プレイヤーの煽動、カマかけ、油断を誘うなど)
投げやりプレー
初心者に手加減しない
舐めプ
「コミュニケーション」を分解する
狭く言えば、
通信
意味の伝達
who.iconさんを知る/who.iconさんに自分を知ってもらえる
広く言えば「共同作業」も含むだろう。
それはコミュニケーションではなくチームワーク?
それとも、チームワーク$ ⊂コミュニケーション?
他にも、
声をかける
気遣う
場を和ませる
何もしない など
今日はキリがないので、コミュニケーションに関しては広めに見渡すだけにします。
さっきのマナーに反しないもコミュニケーションの一部でいいと思います。
communication
語源はcommon
同じ、共通の、共有する
コミュニケーション場のメカニズムとその入力と出力
https://gyazo.com/5b6b85c0528001741a54b4762befd759 (谷口 2019)
ここでのインセンティブ(ゴール)は、ワークショップ設計理論では〈ねらい〉に相当
(多くの)ボードゲームをプレイするコミュニケーション場の〈ねらい〉は、素朴には「楽しむこと」あるいは「勝つこと」ではなかろうか。
場の2種類の目的
〈ねらい〉と〈タネ〉
〈ねらい〉は参加者の参加目的
〈タネ〉はその場のホストの招集目的/そのボードゲームを持ち出した理由
仮にコミュニケーション学習が〈タネ〉ならば、何をやっても振り返りの時間を直後に置けば、その〈タネ〉へ接近させられる コミュニケーションうんぬんは〈タネ〉に過ぎない
先の図「コミュニケーション場のメカニズムとその入力と出力」でいえば結論 $ Y
コミュニケーションツールとする(=コミュニケーションが〈ねらい〉)ならば、ボードゲームである必要はないのでは?terang.icon
コミュニケーションのため用いることができる手段はボードゲームの他にもある
ボードゲームじゃなくてキャンプでいいじゃんwho.icon
まったくその通りterang.icon*2
コミュニケーションを〈ねらい〉にボードゲームをしたいのならば、コミュニケーションとは別の〈ねらい〉が追加で必要。
参加動機としては多くの場合、弱い。
それは他(コミュ力を高める、学べる、活性化する、仲良くなる、社交性が身につくなど)も同じように弱い。
苦し紛れの〈ねらい〉追加例: 研修だから
しかし研修だからなどの別の〈ねらい〉を追加しても「ボードゲーム性?」のようなものが著しく減衰する気がする。
なぜだろう?(これが今日のテーマ)
〈ねらい〉は発話者との関係によって影響が異なる
その〈ねらい〉を発したのは、
有名なボードゲームデザイナーか?
新興宗教にハマっていると最近専ら噂の人か?
普段から職場で癇癪を起こしやすい上司か?
半年経ってもいまいち職場に馴染めない新人か?
要は、「コミュニケーションは、ボードゲームで遊ぶ場の〈タネ〉になり得るが、〈ねらい〉とはしづらい」という話。
コミュニケーションが〈ねらい〉のボードゲーム(1/3)
(寺島 2009)
(...)
勝利ではなくコミュニケーションを目的としてしまうと。つまり、ゲームの勝ち負けにこだわらず、楽しめばいいじゃんといってしまうと、どうしても、友人関係が有利になる。
そりゃそうだ。彼らはゲームがなくても楽しいのだから。
逆に、部外者には不利だ。
(...)
初参加の場でパーティゲームにまきこまれてしまったら、あなたははじめから負けているんである。 みんながなぜ笑っているのかわからなかったり。メンバーの空気に溶けこめなければ、疎外感を感じるばかりになってしまう。
あまり好かれていない人も不利。社交が苦手な人も不利だ。なにより、苦手な相手がいると楽しめない。 パーティゲームを楽しめるかどうかは、メンバーによる。パーティーゲームには実は、そういう危険がある。
(...)
いっぽう、勝利のみを追及するゲームは違う。
どんなに嫌いな相手とでも、楽しむことができる。ゲーム自体がおもしろければ。
プレイヤーはみな同じ「このルールの上でどう勝つか」を考えている、そういうゲームの上では、相手のことが好きか嫌いかなど関係ない。
ゲームとしてのおもしろさのほうが、普遍的なのじゃないか。
(...)
コミュニケーションが〈ねらい〉のボードゲーム(2/3)
(樫尾 2010)
Xさんという私の知り合いがいる。ある日のこと、私はXさんの自宅に遊びに行った。Xさんはボードゲーム愛好家で、私もゲームが好きだから、やることと言ったら当然ながらゲームになる。そこで、ゲームをするのだが、モクモクとゲームをやる。ひたすらゲームをやる。そして時間も遅くなり、Xさん宅をあとにした。
今思えば、一緒にゲームをした人たちの顔や性格、考え方、主義主張、個性など、キレイさっぱり忘れている。印象に残っていないのだ。
なぜだろう。その理由は明白だ。とにかくゲームばかりをやりすぎて、あまり個人的な話をしなかったからだ。感覚としてはゲームセンターに行き、見ず知らずの人と格闘対戦ゲームをしたけど、相手の素性を全く知らない…というのと近い感覚だ。 このX氏宅ゲーム会はいかがなものだろうか。ゲームがたくさんできたのは良かったが、果たしてそれだけなのか。それだけなのだ。
コミュニケーションが〈ねらい〉のボードゲーム(3/3)
(朝戸 2010)
そして、最終形はボードゲームながらトークだ。
親しくならないと、失礼に当たりかねないから、少しづつ様子をみよう。
様子をみつつ、トライしよう。
「俺の番か、う〜ん…そう言えば最近見た映画なんだけど」
朝戸は、コミュニケーションを〈ねらい〉にボードゲームをするとこういうことになっちゃうよ、ということを皮肉的に言っている(と解釈できる)terang.icon
有用だから善い / 有用でないから善い
どちらの価値判断もあり得る
〝ゲームの社会的有用性とは何なのか?〟の議論
この〔ボードゲームは社会的に有用であるという〕功利主義的な考えが議論の余地のある無害な意見でしかないのであれば、これが現実の問題になることはないだろう。問題は、だんだんとprescriptive(指示的)になってきていることだ。私のようなゲームデザイナーは、今では、全ての創作物の一つひとつについて社会的有用性を提出して正当化すべき事態になった。(Faidutti 2021) ゲーム/遊びは、有害なもの不真面目なものと虐げられてきた
このパラダイムを乗り越えようとしたのがホイジンガ(小原 2011) 現代においてもこの反動として有用性を前景化させられがちかもしれない
e.g. 家で肩身が狭いお父さん
内心: あまり家にいたくない
(自覚的な場合もそうでない場合もある)
外向き: 一人旅が好き
「私や社会にとって得だから」と有用性を適度に動機として公言したほうが平穏
そこを無理に言語化させるのは野暮/下衆の勘繰りというもの。放っておいてあげるのが親切。 内心があるかもしれないし、ないかもしれない。あったとしてhogeかもしれないしそうでないかもしれない。
「交際相手を探したいからボードゲームをする」と内心思う人、公言する人。
「勝って、優越感を得たいからボードゲームをする」と内心思う人、公言する人。
言い換えるならば、相手との関係の始まりと維持されようとする力によって、都度都度、理由は記号化され、またその記号は常に変化もする
楽しさ、面白さはどこからくるのか?(1/2)
演じることが楽しい
カイヨワによれば、他者になる、あるいは他者であるかと思わせることを、人間は楽しいと感じる 人物:登場人物の設定
「あなたは鉱石を扱う商人です」
時空:時代や時間の設定、および、空間の設定
「中世の都市で鉱石を宝石に変換します」
事件:展開するストーリーのきっかけとなる出来事
「貴族からの一定名誉をいち早く得た人が勝者です」
楽しさ、面白さはどこからくるのか?(2/2)
客観的外部性: 誰にとっても同じように存在していること
普遍的価値性: 誰にとっても同じように価値があること
確定性: すでに決定されていること
これらが現実から遊びの場へどの程度持ち込まれるかのバランスが面白さを決める
外部(現実)は複雑で、遊びの場のルールは単純
我々は「リアル」であればあるほど面白いと考えがちだが、実際にはそうではない。それは戦いを抽象的に模した将棋やデフォルメを施したマンガの面白さからもわかる。
仮に、先に〈タネ〉が公言される。つまり、このボードゲームの目的はコミュニケーションして仲良くなることです、と。
すると、バランスが崩れる、つまり面白く無くなる。
〈タネ〉は達成されるとは限らないし、〈タネ〉以外のことも(「コミュニケーション場のメカニズムとその入力と出力」の図でいう結論 $ Yとして)出力されるかもしれない、ゆえに楽しい/面白い。
全体主義はコンサマトリーを認めない
全体的支配はその目的を実際に達しようとするならば、「チェスのためにチェスをすることにももはやまったく中立性を認めない」ところまで行かねばならず、これとまったく同じに芸術のための芸術に終止符を打つことが絶対に必要である。全体主義の支配者にとっては、チェスも芸術もともにまったく同じ水準の活動である。双方の場合とも人間は一つの事柄に没入しきっており、まさにそれゆえに完全には支配し得ない状態にある。(アーレント 1951) つまりアーレントに言わせれば、〈ねらい〉とはいえ目的を持ち出すことは、全体主義へ一歩近づくことになる Consummatory
「それ自体を目的とした」「自己充足的な」という意味。
対義語は、インストゥルメンタル Instrumental 道具的。 行為の自由は、目的(ここでは〈ねらい〉)からも自由でないとならない(國分 2023)
行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない。行為の一つ一つの局面において動機づけや目的が重要な要因でないというわけではない。それらは行為の個々の局面を規定する要因であるが、こうした要因を超越しうるかぎりでのみ行為は自由なのである (アーレント 1956, 強調は引用者) 〈ねらい〉(=動機づけや目的)を超えて、さらには〈タネ〉ともまた別の何かが生まれることを期待できる者を「ファシリテーター」と呼ぶterang.icon
発話の意味は、発話内容そのものではなく、発話外の状況でしか決まらないとする考え方
後期ヴィトゲンシュタイン
写像理論は、科学的な文と事実は同じ数だけ存在しているとする理論
科学的な文とは「鳥が木にとまっている」というように1つの事実を写し取っている文のこと
ヴィトゲンシュタインの指摘は、「言語ゲームのルールをゲームプレイヤーはわかっていない」ということ。そしてそれが「言語の本質である」ということ。 たとえば、謎の石板が目の前にあり、隣に言葉の通じない人がいるとき
「石板!」とwho-blue.iconがwho-lightgreen.iconに対して叫んだとする
その意図は?
「石板」という名前を教えたかったのかもしれない
「石板をもってこい」という命令だったかもしれない
相手からすればどちらも同じ叫び。
who-blue.iconが「石板!」と叫んだとき、名前を教えることを意図していたとする。しかし、who-lightgreen.iconはwho-blue.iconのもとへ石板を運んできた。「持ってこい」という命令だとwho-lightgreen.iconが受け取った。who-blue.iconは面倒なので、しばらくのあいだ「名前を教えたかった」という意図を説明することはせず、あとになってから「実はあれは名前を教えるためのものだった」と説明し、who-lightgreen.iconは納得した。
しかし、第三者であるwho-orange.iconが現れて、「実際にはwho-lightgreen.iconは石板を運んでいたし、who-blue.iconはその行動の意図を説明しなかった。だから最初の発話「石板!」は命令だったに違いない、今になってそれは「名前を教えたかった」というのは誤魔化しだと告げたとき、who-blue.iconは反論できない。
意図は現実に見ることも触ることもできないから、他者(who-orange.icon)によって遡行的に再解釈可能。
と、東の石板による言語ゲームの説明がわかりやすい。(東 2023)
ボードゲーム盤上の一手の意図も、言語と同じように遡行的に再解釈可能。
一方で、ルール上の意図は(その空間内においてのみ)言語ゲームほど多様な解釈の余地がいい意味で少ない。
令和時代にボードゲームの〈ねらい〉と〈タネ〉を設計する指針: 注意
ボードゲームをやっても〝素〟が現れるわけではない
あるいち側面が表出するに過ぎない
その表出する側面をどのように解釈するかも人によってかなり異なる
盛り上がっているように映っても、仲良くなっているとは限らない
「ボードゲーム(道具)がないとコミュニケーションできない」は少々問題
一般的に、道具がなくともコミュニケーションできたほうがよい 極度の人見知り?にとって、コミュニケーションの導入として遊びやボードゲームは有用と言えるかもしれない
その上で……
令和時代にボードゲームの〈ねらい〉と〈タネ〉を設計する指針(1/3)
上手に勝つ / 上手に負ける
ボードゲームらしい〈タネ〉の一つ。
組織人のソーシャルスキル
コミュニケーションの一種に分類してもいいかもしれない。
「勝つ / 負ける」は、遊び性を高める
ホイジンガは「遊び」を人の文化の中核に据えている(小原 2011)
わかる人はほぼアラサーかと。
https://gyazo.com/1d2529e72e6681f62aac2f64a5c0f93c
みんな大好き
止めて引く演出のヤツ。
https://gyazo.com/b2e7b2946818fd1c9529b0dbb218690c
令和時代にボードゲームの〈ねらい〉と〈タネ〉を設計する指針(2/3)
乾いたコミュニケーションはterang.icon造語
不要ではない
例
天気の話
交通の話
一手を打てばいい
それでもインスト時や手番の合間に規範は発生はするが。
とはいえ、懸念は残る
俗に言われる心理的安全性があるかは微妙
自分だけルールを理解できなかったらどうしよう?という不安
しかし、ボードゲームは、ルールを理解できなくてもなぜか勝てることがある
それはオリジナリティ
負けたときに、「ルールを理解できていなかったからだ」という人がときどきいる
そうではないのに。
令和時代にボードゲームの〈ねらい〉と〈タネ〉を設計する指針(3/3)
1926-2002, オーストリア生まれの哲学者
産業社会が招いた社会的サービスの害に着目した人
反対語は、産業主義的な生産性
パッケージ化されたなんの変更もできない商品を我々が使わされるとき、コンヴィヴィアリティを剥奪されている。単なる消費者の地位に降格されている。(イリイチ 1973) e.g. 医療が専門化されて、人々が自ら診断し治療することは許されなくなった(犯罪とされるようになった)
e.g. 移動手段が高速道路や高速鉄道などによって高度化するに伴って、効率的な移動が求められ、人々は時間に追われる
e.g. 住宅に安全性などの基準が定められることで、人々が自分の家を自分で建てる機会が奪われている
「祝祭」とは、どこかの誰かが運営している祭りを見に行くことではない。それは消費者として体験する祭り。そうではなくて、その祭りの場を、周囲の人を楽しませ自分も楽しむために作り出すことがコンヴィヴィアリティ(=自立共性、共に愉しむ、祝祭性) 変更の余地が少ないから
パーティゲームは、楽しむ部分や遊ぶ部分を自分たちでつくっていける余地が多い
厳密なボードゲームはちょっと弱い
デジタルゲームはもっと弱い
ボードゲームはコミュニケーションツールか?
(再掲) コミュニケーションツールとしてボードゲームは遊べないが、ボードゲームはコミュニケーションツールだったと言うことはできる。
ref.
アーレント(1956)「自由とは何か」『過去と未来の間』『過去と未来の間——政治思想への8試論』引田隆也+齋藤純一 訳、みすず書房、1994、p.204 アーレント(1951)『新版全体主義の起原 3——全体主義』大島通義+大島かおり訳、みすず書房、2017.
イリイチ(1973) 『コンヴィヴィアリティのための道具』
谷口忠大(2019)「コミュニケーション場のメカニズムデザインに向けたシステム論の構築と展望」『システム制御情報学会論文誌』第32巻第12号,pp.417-428. 谷口忠大(2021) 『コミュニケーション場のメカニズムデザイン』.icon 蓮行(2021), 『コミュニケーション場のメカニズムデザイン』.icon第4章